エヴァンゲリオン

宇多田ヒカルの「One Last Kiss」の画像は庵野秀明氏が監督を務めた云々との注釈文を読みながら、見てもいない映画のことを思ったのだけども、20年以上前の学生時代に友人の友人程度の男が「いままでのアニメに出てきた中であんなに気持ちが悪い主人公メカがあったか」という名言しか覚えていない程度で、つまりはほとんど見ていないわけだ。とはいえ、清水折戸から静岡七間町の東映映画館まで出かけて映画をみた。本編が終わって、次回作の予告で裸をみて思わず興奮してしまい病室で自慰行為にふけってしまう主人公の出した精液を大きな画面で眺めていると、その気持ち悪い造形のロボット(ロボットですらないことがテレビ版で話されていたわけだけども)の量産型が空から大量に降ってくるところで、「乞うご期待」と場内は明るくなり現実に戻ると、終電は終わっており清水へ帰る術を失っていた。なんとか頑張って静岡から草薙あたりまで歩いて、結局タクシーをどうやって頼んだのか、それで帰ったのだった。

自分のことをだらだら書いてしまったけが、その宇多田ヒカルさんの曲の注釈解説を読みながら思ったこととして、エヴァンゲリオンがここまで続くとは思うこともなく1995年1月17日に命を失った誰かが大勢いたのではということを考えたからだ。時系列がおかしいのかもしれないが、2011年3月11日の出来事のことでも同じであって、その時に命を失ったあの人たちは、いま我々が語る新エヴァンゲリオンの話を聞くことすらなく、旧解釈のまま人生を終えているという、当たり前なことを思わされたからだ。僕個人はまったくエヴァンゲリオンを見ていないに等しく、その映画、漫画から起きている世界観についてかたることは何も持っていない。ただ、それについて語る時に、常に忘れられている誰かがいることに、いまさらではあるのだけども、気がついたこと、このことは、やはり、私にとっては何か考える時には、たいてい引っかかりになることが多いなあと改めて気づかされた。

曲そのものではなく、その注釈が自分の認知について気がつくきっかけになった。